偉人紹介シリーズ:Vol.2 渋沢栄一
皆さんドーモ
今回は渋沢栄一についてご紹介したいと思います。
皆さんもご存じの通り、2024年7月に紙幣のデザインが刷新されます。
その中でも1万円札の新しい顔となる、渋沢栄一という人物を皆様はご存じでしょうか?
渋沢栄一は1840年 現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
渋沢栄一の実家は農家でありながら藍玉の製造・販売、養蚕などの商いも行う、いわゆる富豪農家でした。
幼い頃から父に商いについてや学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
渋沢栄一自身も商いのプロフェッショナルとなっていきます。
14歳の時に染料の仕入れを任されると「武州自慢鑑藍玉力競」という仕組みを作ります。
簡単に言うとランク付けで、染料のもとになる仕入れる藍の品質に良し悪しを評価し、価格に差を付けました。
当時は品質によって値段が変わるという概念が乏しかったため、仕入れ先は高く買ってもらおうと品質向上に努めました。
その結果、仕入れ先全ての藍の品質を向上させました。
しかし、17歳の時に代官に呼び出されて「500両を差し出せ」と命じられた出来事をきっかけに幕府に不満を持つようになります。
「なぜ年貢も収めているのにそれとは別で必死に働いて稼いだ理不尽にお金を差し出さねばならぬのか」
ごもっともな意見ですが当時は幕府の言うことは絶対で、逆らうと家の取り壊しや投獄もあり得ました。
そこで渋沢栄一はある計画を考えました。
それが幕府転覆です。
渋沢栄一は沢山の仲間と武器を集め、高崎城という城の襲撃計画を練るのですが、仲間の必死の説得を受け計画を中止します。
しかし、中止したものの、計画をしていたこと自体が幕府に漏れてしまい、渋沢は追われる立場となってしまいます。
そんな渋沢を匿ったのが江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜でした。
幕府から逃げるために幕府に匿ってもらうというおかしな状況ですが、それだけ優秀な渋沢を徳川慶喜はリスクを冒してでも欲しがったという事です。
その後は徳川慶喜のもとで財務などの役職についていたのですが、1867年渋沢の人生を大きく変えるイベントが開催されます。
パリ万博です。
このパリ万博に渋沢も日本の派遣団の一員として参加します。
そしてこのパリ万博で
水道、電気、ガスが発達し、生活の質が向上し、ありとあらゆるものが機械化されている未来の姿を目の当たりにしました。
当時のフランスは日本とは比べ物にならないほど近代化されていたわけです。
そんな近未来を見た渋沢は
「このままでは日本は世界に置いて行かれる。日本も早急に近代化しなければならない」
と感じたわけです。
そして日本に帰ってきた渋沢は様々なことを行います。
フランスで見つけた「株式会社」という存在を日本に広めようと考えます。
他の会社に出資するためにはお金が沢山必要だと考えた渋沢が最初に行ったことは日本で初めての「銀行」を作ることでした。
そうして生まれたのが日本で初めての銀行にして現在のみずほ銀行の前身である国立第一銀行です。
そしてここで資金を稼いだ渋沢は沢山の企業を立ち上げます。
近代化にガス会社が必要だと考えガス会社を立ち上げました。
これが誰もが知っている「東京ガス」
これからは情報社会になっていくと考え多くの人が新聞に触れられるようにと製紙会社を設立。
その製紙会社が現在も超大手の「王子製紙」
更にセメントの超大手「太平洋セメント」
繊維や織物を扱う紡績の超大手「東洋紡績」
更にさらに「東急電鉄」「秩父電鉄」「京阪鉄道」
日本の三大高級ホテル「帝国ホテル」
極めつけは日本最大の金融商品取引所「東京証券取引所」
「キリンビール」「サッポロビール」「明治製菓」も渋沢が立ち上げに携わっています。
科学研究が必要だと考え「理化学研究所」も作りました。
渋沢が生涯で立ち上げた会社は大小問わず500社以上でした。
現存している会社は167社 そのうち上場している会社は99社です。
もちろんこれだけの会社を立ち上げればすべての経営に携われるわけではないので、経営権を他の人に譲っていきました。
渋沢は決して儲け目的で会社を作ったわけではなく、日本が成長するためには民間が力を持つことが大事だと考え、真に日本の未来を考えて、人々が平等に稼げる国を作りたかったのです
更には経済だけでなく社会活動にも力を入れました。
日本赤十字社の設立やキリスト青年会の日本の窓口の開設
これからは教育も大事だと考え「一橋大学」「東京経済大学」「二松學舍大学」の設立にも携わりました。
女性の社会進出も重要だと考え「日本女子大学」「東京女学館」まで立ち上げました。
これだけではなく日本を世界に広めることも必要だと考え、今では当たり前に行われている「民間外交」を行ったのも渋沢が最初でした。
今後発展していくインドとの関係を深めようと「日印協会」を設立し互いの文化交流を行い、アメリカとの親善を図るために「日本国際児童親善会」を設立し、アメリカの人形と日本の人形を交換し合う友情人形を行いました。
さらに中国で水害が起きると水災同情会を設立し義援金を募りました。
このように民間の立場から世界に向けて様々な活動を行いました。
こうした渋沢の活躍でこの時代の日本は一気に近代化を成し遂げました。
日に日に豊かになっていく日本でしたが1923年、そんな日本に史上最悪の災害が発生します。
それが「関東大震災」
過去に類を見ない大きさの震災で、人が集まる関東で起こってしまったがゆえに10万人を超える犠牲者が出ました。(2011年東日本大震災の際は2万2215人)
想像を絶する犠牲の数、あまりの凄惨さに日本の心は折れかけていました。
そんな時に立ち上がったのが80歳の渋沢でした。
渋沢は生涯で作り上げた経済ネットワークを活用し、政府が動くよりも前に仮設住宅、避難所、救命臨時病院、総合情報案内所、孤児院を設立。
自分の持つ土地や屋敷を開放し、炊き出しまで行いました。
更には災害後援会を作り、義援金などの復興支援に奔走しました。
そんな渋沢の活躍や、当時の山本権兵衛内閣の活躍もあり、日本は6年という歳月で復興を遂げます。
そして日本を発展させ、日本を守った渋沢は1931年 91歳で眠りにつきました。
私利私欲に走らず国の発展に奔走した渋沢が生涯心掛けた理念を最後に紹介して終わろうと思います。
「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することはできない」
渋沢栄一の生涯、いかがだったでしょうか?
新しい1万円札の顔になるのも納得です。
私も渋沢栄一のように私利私欲ではなく、人のため世の為を本気で考えて仕事に向き合いたいと思います。
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